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博多にわかとは

I. 博多にわかとは

1. 博多にわかとは

1. 博多に伝わる話芸の伝統芸能です。踊りではありません。おしゃべりです。概ねお笑いの部類になります。

2. 博多にわかの特徴

(イ) 博多にわかの面(半面)をかぶること。

(ロ) 博多弁でしゃべること。

(ハ) オチは原則として同音異義語で落とすこと。


3. 博多にわかの種類

(イ) 一口にわか・一人にわか
一人でするにわかを言います。1分以内くらいでするものを一口にわかと言います。

(ロ) 掛け合いにわか
二人で漫才のようにするにわかを言います。

(ハ) 段ものにわか
寸劇、または劇仕立てのにわかを言います。

4. 博多にわかの起源説

(イ)悪口祭(あっこうさい)説
黒田如水公(1546〜1604)が若い時に姫路の一宮・伊和明神の例祭を見たそうです。その中で人々が個人の悪口、政治に対する不満を言い合う悪口祭を見ていつか政治に取り入れたいと思ったそうです。如水公は福岡入りした後に博多の町人たちを一宮・伊和明神に悪口祭などを見学させたそうです。博多の町人たちはこの時の悪口祭の精神を博多にわかに変えたというのです。福岡藩士、海妻甘蔵(かいづまかんぞう 1824〜1909)の説です。

(ロ)松囃子(まつばやし)での戯れ言(ざれごと)説
松囃子は申楽(さるがく)の一種で室町時代に流行したそうです。松囃子とは城下町の人が正月に城主にあいさつに行き、そこでいろいろな芸能を披露し正月を祝うことです。博多どんたくの起源になっています。博多松囃子は神屋宗湛(かみや そうたん)の記録で文禄四年(1595年)におこなったとあるそうです。明和のころ(1764〜1771年)の松囃子の道中(石城志)や城内の殿様や奥方の前で戯れ言(冗談。おもしろいことを言うこと)を言った(追懐松山遺事)のが起源とする説。

(ハ) 盆踊り転化説
博多には盆踊りがなく、もともとあった盆踊りが博多にわかに転化したという説、またはにわかが盆踊りに転化したという説。福岡藩士、海妻甘蔵は『己百斎筆後抄』に「 ニハカは自ら体面を変し、全く一種の盆踊となりゐしが、…」と記しており、にわかが盆踊りに転化したように書いています。また、秋樓生は大正7年刊行の「新選博多仁和加」で「寛永年間(1624〜1644)に博多仁和加は盆踊りの転化であるのは事実らしい。盆踊りの賑わいの中で出会い頭に謎のような軽口を出任せに言い滑稽諧謔(こっけいかいぎゃく)を連発して行きすぎたそうです」と盆踊りが博多にわかに転化していったように記しています。
ただし、博多にわかの歴史に詳しい井上精三氏は真っ向から否定しています。「江戸時代、即興的、仮装、曳きもの、芝居、踊りなどがすべて『俄踊』と呼ばれており先人たちは、にわかを同系統のものと思ったのではないか?田隈、志賀島、津屋崎では盆踊りがあったという記録があるが博多で盆踊りがあったという記録がない。むしろ、盆おどりは田舎者の踊りと軽蔑していたところも見受けられる。それに祖先の霊をなぐさめる仏教行事が民衆の娯楽になった盆踊りとにわかは起源も性格も違うのでこの説は否定されなければならない」とまで書いています。

(ニ)  大阪俄伝播説(全国的な説)
俄は江戸時代、大阪で始まり俄の大まかな形式が出来上がっていって全国に広がったという説。道端で数人による今でいう小コントをするスタイルでその後、当時の歌舞伎役者のまねやストーリーのパロディ化、また武士社会への不満などを笑いに変えていたものもあったという説。博多に伝わった俄はその後、肥後や佐賀に伝わったともいわれています。この説は全国的には通説ですが、博多(福岡)ではそうでもありません。

U.にわかとは

1.「にわか」とは

(イ)「にわか」の語源はすぐにとか急にという意味からきています。にわか雨、にわか成金などのにわかと語源は同じです。ですから「にわかに博多にわかをする」というのは重複した言い方になります。私が博多にわかをしたあとに「私も博多にわかをします。『志岐さんがにわかににわかをした』ハッハハハ」と言う人がいらっしゃいました。今までに三度ほど経験しました。いずれも、それほど可笑しくはありませんでした。

(ロ)「にわか」は即興、風刺、洒落、滑稽を身上としているといわれています。全国的には数人での寸劇のスタイルが多いようです。共通して言えることは地元の方言を使っていること、オチがあることなどです。

2.全国のにわか

にわかは博多にわかだけではありません。全国に三十数ヶ所あるといわれています。全国的なつながりでは「にわか学会」というのがあります。代表委員は高知女子大学教授の佐藤恵里先生です。事務局の連絡先はは岐阜県美濃市の市役所経済建設部観光課内です。電話0575-33-1122です。全国には美濃流しにわか(岐阜県)、河内にわか(大阪府)、甲山にわか(広島県)、佐喜浜にわか(高知県)、矢矧にわか(愛媛県)、本田にわか(福岡県八女郡黒木町)、佐賀にわか(佐賀県)、牛津にわか(佐賀県)、肥後にわか(熊本県)などがあります。

3. にわかの文字

(イ)「俄」「仁和加」「二〇加」などがあり実例は次の通りです。
「大阪俄」(全国のにわか研究者でも博多俄・肥後俄と書かれることがあります。)「佐喜浜俄」「美濃市仁輪加連盟」「本田仁○加保存会」「甲山にわか振興協議会」「矢矧神社にわか保存会」「博多仁和加振興会」「博多にわか五月会」「二〇加煎餅」

(ロ)大正から昭和初期の博多にわかの文献には「仁和加」の文字が多く見られます。

4.「俄(にわか)」は一回きり?

(イ) 全国の俄の中には台本はあるものの「一回きり」を大事にしている俄は少なくないそうです。練習もほどほどにしてアドリブを大事にし、やるたびに違わなければいけないとまで決めている俄もあるそうです。

(ロ) 博多にわかの川丈組の長尾寅吉氏も昭和9年九州日報の記者に次のように語っています。「博多仁和加は同じことを二度やると云ふことを恥とした。つまり、古い仁和加をすれば笑ひの種になるわけで昔の面白い仁和加の作でも、伝統的に残されては居ないのである。・・・」

(ハ) 俄の元祖ではないかと言われている大阪俄で受け継がれている段物にわかがあります。代表的な作品としては「三方笑(さんぶしょう)」というのがあります。明治の名人鶴家団十郎らによって演じられたのが最初だそうです。歌舞伎「夏祭」の団七、「仮名手本忠臣蔵」の与市兵衛、「伊賀越」の沼津の平作の三つの演目の三人物による物語です。一回きりでは本当にもったいない作品です。博多でも昔からの段物にわかが残っています。「大坊主、小坊主」(箱善組)や「里のみやげ」(住吉仁和加教室)などがそうです。

V.にわかの周辺

1.俄と風流(ふりゅう)

(イ) 「風流」は「浮立」とも書き平安から鎌倉時代にかけて流行したそうです。衣装、道具立てなどに人目を引く趣向を凝らし、きらびやかで風情があることを呼んでいたそうです。歌舞音曲と結び付き、祭りなどに道中美しく着飾って町を練り、あるいは鳴り物に合わせて踊る中世芸能として形を整えていき、土地ごとにさまざまな変化を見せながら全国にひろまったそうです。この風流の中に俄のベースがあるといわれています。    

2.俄と狂言

(イ)能狂言は足利義満にかわいがられた世阿弥・観阿弥親子は経済的な支援をうけながらを続けていくうちにスタイルが確立されました。その後、信長、秀吉、そして徳川家の保護のもとに保存継承することができました。狂言は笑いのデパートともいわれています。263の演目のうちにほとんどの笑いのパターンを含んでいるといわれています。初期の頃の俄に「罷(まか)りいでたる某(それがし)は・・・」という「狂言」のパロディを入れたものもあったそうです。

3.俄と歌舞伎

(イ) 歌舞伎と笑いは無縁と思われている方もいるかもしれません。出雲の阿国が始めたころから喜劇役者のような人がいたそうです。「猿若」と呼ばれる人達でした。屏風や草子にも描かれています。彼らは滑稽な扮装をしたり、滑稽なしぐさをしたり、また鳥獣の鳴きまねや著名人のものまねなどをして笑いをとっていたそうです。

(ロ) 当時の歌舞伎作家の中には俄で使う「まかりいでたるそれがしは…」などのセリフを入れた作品を作る人もいたそうです。

(ハ) 幕末嘉永の(1848〜1853)頃の大阪で手爾波(てには)狂言が流行ったときも歌舞伎がかったセリフや所作で笑いをとったそうです。そして江戸の芝明神境内で興行をうったそうです。

(ニ) 天保六年(1835)、七代目市川団十郎がまだ海老増蔵と名乗っていたころ、博多で初めて興行をしました。その時に自分にセリフをまねている博多っ子のうまさに「博多はさすがに芸どころとはかねて聞いていたが、その名に恥じない」と関心したそうです。余談ですがこの時に仙涯和尚と瞬間的な面談をしたそうです。

W.にわかの歴史など

(イ)  にわかのベースになっているものの歴史は、奈良時代、当時の中国から伝わった「散楽(さんがく)」(転じて「猿楽(さるがく)」)といわれています。それが江戸時代の享保年間(1716〜1736)前後に「俄」という形が発生し、やがて「流し俄」として流行しました。大阪、京都、美濃、江戸、博多などの商業的な都市から定着していったようです。

  (ロ) 「俄」という言葉が初めて文献に出てくるのは享保年間(1716〜1736)より後の時代だそうです。

(ハ) 天保(1830〜1844)のころには博多だけではなく小倉、久留米、柳川の文献に「俄」「俄踊」などの文字が見られるそうです。

(ニ) にわかの最初の文献は「清神秘録」(宝暦6年 1756年)だそうです。近世を通して最も優れた俄論を持っているのは安永4年(1775年)に刊行された「古今俄選」だそうです。「清神秘録」同様ににわかの源流は天岩戸(あまのいわと)の天鈿女命(天宇受売命・あめのうずめのみこと)の踊りと記されているそうです。

(ホ) 天保元年(1830)には大阪俄の中興の祖といわれる村上杜陵(とりょう)が出てにわかの形態が決まったといわれています。

X.博多にわかの歴史など

博多にわかは幕末、明治、大正、昭和十年代までは段ものスタイルのにわかが主流でした。長いものは5時間以上も演じられていたそうです。段ものの幕あいに一口にわかが演じられていたそうです。戦後からはその一口にわかが主流になりました。

(イ) 江戸時代の博多にわかに関する文献はほとんどありません。私の知る限りでは、「博多天保弘化記」と福岡藩士海妻甘蔵(1824〜1909)が明治になって書きのこした「己百斎筆語」(こひゃくさいひつご)ぐらいです。

(ロ) 仙涯和尚(1750〜1837)
ユーモア好きで庶民に親しまれ武士に対して反骨精神もあった仙涯和尚の残したものの中に「またから(又から・股から)竹の子とらさるな(捕さるな・虎猿な)」「テン<ツクツク、ヒーヤリ<(小太鼓と笛の音・天突く、ひー槍)」「お江戸では市川二かわ(一か二かは)知らねども、ピンと跳ねたる海老(エビ・市川海老蔵)の目の玉」などの地口が見られます。しかし「博多にわか」という文字はでてきませんし、私の知るかぎりでは絵の中にも、にわかの半面も出てきません。この時代、全国的には「俄」はありましたが博多の町ではまだそれほど一般的ではなかったのかも知れません。

(ハ) 江戸時代末期、博多でも二〜三人でする流しにわかが流行し始めたそうです。それが明治に入ると組を作ってにわかをするようになり、最初にできた組は「鬼若組」といわれています。その後次々と組ができていきました。「竹田屋組」「吉井屋組」「万利組」「麩屋組」「畳屋組」「川丈組」「水儀組」「泉組」「ペン梅組」「箱善組」などです。

(ニ)川上音二郎(1864〜1911)
元冶元年、一月一日、中対馬小路に生まれる。父専三は石炭卸、船問屋を営み、博多にわかでは「鬼若組」の囃子方でもあったようです。14才の時に母が亡くなり後妻がきたのをきっかけに東京に行くことを決意。大阪行きの船に乗り込みました。そして東京増上寺の小坊主になりました。境内に散歩にきていた福沢諭吉と知り合い慶応大学の塾僕となり、ただで授業を受けることができました。朝帰りの学生から金を貰って門を開けていたりしたことが福沢諭吉に知れて放逐されました。「オッペケペ節」で評判をとり一躍有名になりました。また、子供の時から見聞きしていた博多にわかを書生芝居という演劇に取り入れました。書生仁和加といわれるものがそうです。笑いの中に時事を風刺し、政治を批判する芝居形式が珍しがられたそうです。。その後も一座を作ったりして、パリ、サンフランシスコ、シカゴ、ワシントン、ニューヨークなどでも公演をしたりしました。公演先の場所では仲介人に金を持ち逃げされたり公演の受け入れ先がなく食事すらできない日々もありました。また、数人の仲間が現地で亡くなることもありました。また、若い時から言論に問題があるとして100回以上警察に捕まりました。また、衆議院議員に立候補したこともありました。タレント議員候補の第一号でしたが 落選しました。東京、大阪、博多でも公演したが腹膜炎のために明治44年、48歳で亡くなりました。病院で危篤になると帝国座に運ばせて舞台の上で息をひきとりました。その一生通じての反骨精神に博多にわかの心を垣間見ることができます。

(ホ) 明治20〜30年代が博多にわかの全盛時代といわれています。むしろ異常な時期だったという研究者もいらっしゃいます。当時はお盆のあとの8月16日〜8月20日にする「盆にわか」が中心でした。最初の打合せは毎年七夕のころに大店の旦那などが座長となりメンバーを家に集めます。台本一つにしても一年間かけて頭をひねり、趣向をねった作品なのでたいへんおもしろかったそうです。一同が集まるとあらすじ、配役などを発表したあと質疑応答があって酒宴となったそうです。一同に揃いのゆかたと帯が贈られることもあったそうです。舞台が設置されたのは博多の町(那珂川より東側で主に町人・商人の町)では綱敷天満宮、下鰯町の広場、大乗寺前町、矢倉門、大浜、そして福岡の町(那珂川より西側で主に武士の町)では水鏡天満宮、小烏神社、唐人町、西公園下、伊崎などでした。福博の町はにわか一色に塗りつぶされるほどだったそうです。ちなみに台本に関しては私の知るかぎりでは江戸時代、明治時代のものはなく大正時代以降のものしか残っていません。やはり、にわかは一回きりのものだったのでしょう。
大正14年に刊行された高木喜七氏の「宝廼入船日龍同盟」の序文で竹田秋桜が「もう駄目だらう。行詰って居るぢやないか、博多仁和加は?…」と記しています。もう大正のこの頃には全盛を過ぎていることを示しています。

Y.博多にわかは風刺

(イ) 博多天保弘化記では「・・・御家老初メ町奉行諸事御切手倹約のと様々当時役すじの事ばかり致す。・・・」と家老、町奉行、倹約令などの時局批判も見られるそうです。

(ロ) 海妻甘蔵(1824〜1909)は己百斎筆語(こひゃくさいひつご)に「然して口に唱ふるハ、国政の得失、次に百官職務の勤惰と善悪を発表し、また隣保の醜悪を駁(ただ)し嘲(あざけ)るを主本とす。」と記しています。

(ハ) 平田汲月氏(1894〜1972)は「趣味乃博多」で「博多仁輪加は博多の名物であるとゝもに博多の姿である。博多仁輪加は或る、社会的事象を捉(とら)へて来て巧みに劇化し奇想天外的な滑稽(こっけい)な筋の運びのうちに放胆(ほうたん)ないかも寸鉄殺人的な批評を加へ、社会事象に対する鋭い風刺と爆発的哄笑(こうしょう)のうちに或る激烈な力で観る人の胸に何物かを喰ひ込ませねばやまない郷土劇であるしかし博多仁輪加は単なる『喜劇』ではない、博多民衆の胸中に燃えあがる押へ切れない何物かゞ仁輪加のかたちをとつて現はれたもので『博多民衆の聲(こえ)』であり『新聞』であり『評論』でありまた民衆の力の『安全弁』であつたのだ。…」と記しています。

(ニ) 糸岐ぼんち氏(1923〜1993)はテレビ番組で「博多にわかの真髄は何ですか?」の質問に対して「反骨精神です」と答えています。



[参考文献]

「新選博多仁和加」 (大正7年 秋樓生氏 執筆)
「宝廼入船日龍同盟」(大正14年 高木喜七氏 著)
「趣味乃博多」(昭和7年 三松荘一氏 編  福岡協和会発刊)
「福岡県郷土芸能」(昭和11年 福岡県 発行)
「肥後にわか」(昭和24年 吉原嘉三郎氏 編)
「にわか今昔談義」(昭和32年 井上精三氏 著  博多仁和加振興会 高木勝太郎氏 発行)
「筑紫美主子 佐賀にわか」(昭和51年 福岡博氏 編  ふるさと社出版部 高尾稔氏 発行)
「川上音次郎の生涯」(昭和60年 井上精三氏 著  葦書房有限会社 久本三多氏 発行 著)
「筑前人物遺聞」(昭和61年 海妻甘蔵氏 著  広渡正利氏 校訂  株式会社文献出版 栗田冶美氏 発行)
「博多にわか読本」(昭和62年 井上精三氏 著  葦書房有限会社 久本三多氏 発行) 
「江戸時代人づくり風土記 福岡」(昭和63年 柳 猛直氏 文  社団法人 農山漁村文化協会 発行)
「博多どんたく読本」(平成4年 岡部定一郎氏 著  福岡市民の祭り振興会 発行)
「仙涯百話」(平成10年 石村善右氏 著  株式会社文献出版 栗田冶美氏 発行)
「歌舞伎・俄研究」(平成14年 佐藤恵里氏 著  新典社 発行)
「笑いの芸能にわか 発掘!ぎふの庶民文化」(平成14年 神田卓朗氏 著  岐阜新聞社 発行)
「古典芸能入門」(平成15年 博学こだわり倶楽部編  河出書房新社 若森繁男氏 発行)
「笑いの歌舞伎史」(平成16年 荻田 清氏 著  朝日新聞社 柴野次郎氏 発行)